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伊勢原東成瀬のフランス料理店 ラ•ガシューのホームページです

フランス料理 ラ•雅寿


本来、シャブリは樽熟成をさせないワインですが近年はコート・ドールの白ワイン同様に樽を使う醸造元が出来ました。樽仕込みで作られるワインは特有の切れの良さと風味と木ノ実を思わせるコクを併せ持つ個性豊かなワインになります。
 雅寿のオリジナル・シャブリは厳選したぶどうを樽仕込みで、特有の酸味を生かしつつ、味のニュアンスを豊富に取り入れた絶品に仕上がりました。是非、ご賞味ください。

フランスワイン各種取り揃えております。




伝統的にシャブリは樽熟成をさせないワインなのですが、近年はコート・ドールの白ワインと同様に樽を使う醸造元がでてきました。しかしルセストルでは伝統を守りステンレス・タンクとホーロー・タンクで発酵熟成させています。発酵は温度を20~22度に保ちおよそ10日間、続いて乳酸発酵を起こさせた後、オリ引きを行いそのまま9~10ヶ月間タンクで熟成させ、ボトリングします。こうして造られたルセストルのワインは、キンメリッジ土壌に育まれたシャルドネ特有の切れの良さ、ミネラルの風味と木の実をおもわせるコクを併せ持つ個性豊かなワインとなります。
●シャブリ
 ルセストルが、シャブリ地区内の数箇所に持つシャブリ呼称の土壌は、キンメリッジ土壌に石灰岩が含まれています。若葉をおもわせる爽やかな香り、みずみずしい果実味と酸味、ほどよいミネラル風味の調和が取れ生きいきとした味わいです。飲む適温は10~14度。飲み頃は収穫年から4~5年でしょう。
●シャブリプルミェ・クリユ「フルショーム」1995
 グラン・クリユと同じセラン川右岸の丘に広がる、一級畑。土壌は泥灰土と粘土質、石灰岩を含む層が交互に重なったキンメリッジ土壌。柑橘類や若葉を思わせる高くエレガントな香り、ヘーゼルナッツを思わせるまろやかな風味が切れのよい酸味を引き立て、後味にミネラルの風味と爽やかな酸味が残ります。飲む適温は12~15度。飲み頃は収穫年から3~7年でしょう。
●シャブリの歴史
シャブリが過去にたどってきた不幸と幸福とは、フランス自身がたどってきた歴史にちょっと似ているところがある。事実、村の生活は、過去色々な出来事が起こるたびに揺れ動き、記憶をたどれることができる範囲で考察するかぎり、人々はブルゴーニュのこの小さな町に住むことが本当に好きだったようだ。
●その証拠は?
 すでに新石器時代から、この村の跡を見ることができるし、要塞化された農園の遺跡が存在したことにより、すでにゴロワ時代に定住を試みたことが判る。一方、シャブリの本当の起源は、ローマ人による占領の時代にさかのぼり、その時代にヴォーシャルム(Vaucharmes)の峡谷に田舎領が建設された。
 ローマ人が移住する際は、必ず靴の中にブドウの幹を入れていった。そして、プロビュス(Probus)皇帝が3世紀にブドウ栽培を定着させて以来、シャブリの土地からとれるワインを初めて飲むことができるようになった。それは今から16世紀前のことである。
 シャブリについての最初の書物は、510年に現れた。それによると、ブルグンド(Burgondes)族の初代キリスト教の王様シジスモンド(Sigismond)は、聖ルー(Saint Loup)に献呈された小さな僧院を建設している。その後、村はゆっくりと大きくなっていき、9世紀の初めに、シャルルマーニュ(Charlemagne)皇帝は、聖マリア(Sainte Marie)に献呈された教会を建設している。
 それから20数年後、シャブリは予期しなかった応援を受けることになる。ロワール川沿いに上ってきたヴァイキングを逃れて、トゥール(Tour)にいた僧侶が、聖マルタン(Saint Martin)の聖遺物を持って、オークセール(Auxerre)の僧院に逃れてきた。865年には、シャルル ル ショーヴ(Charles le Chauve)皇帝は、彼らに、聖ルー(Saint Loup)の僧院を与えた。シャブリのワインの成功はそれ以降保証され、ただ待つだけでよかった。
 中世時代には、僧侶と言えばワインを意味していた。ワインは勿論、礼拝に必要だったばかりでなく、僧院の威光と歓待のために必要であった。僧侶の最大の関心事といえば、自分達が作るワインを販売するのに容易な環境に、いかにして入れるか、ということであった。その点、シャブリにいれば、僧侶は間違うことはなかった。シャブリはオークセール(Auxerre)港に近かったし、さらにパリは遠くなかった。
 1118年には、新しい協定ができ、ポンティニ(Pontigny)僧院に対し、36アルペン(arpents、昔の面積単位で、20~50アールに相当)までのブドウ畑を自由に所有していいことになった。だだ、当初は困難な問題が存在した。シャブリはオークセール(Auxerre)の近くにあったし、またオークセールワインの栄光に苦しめられた。当時、ボーヌ(Beaune)やボルドーについては、ワインの通商についての文献がなかったから、聖職者はオークセールワインのとりこになっていたからである。
 その後、数十年経つにつれ、シャブリの名声はどんどん高まり、オークセールワインの地位を完全に奪うようになった。ちょうど都合がいいことに、時代とともに、サンドニ(Saint Denis)やシャンパーニュの定期市により強化され、販売ルートも確立されてきた。シャブリのワインは、ルーアン(Rouen)経由でイギリスに輸出され、コンピエーニュ(Compiegne)経由で、ピカルディー(Picardie)地方やフランドル(Flandre)地方へ出荷された。1455年には、「フランスの会社(Compagnies Francaises)」の記録では、「モーバージュ(Maubeuge)やエノー(Henault)地方の商人」による、シャブリワイン67樽の輸送が登録されている。歴史上の色々な動揺にもめげず、シャブリの名声と富は確立され、二度と消えることはなかった。
 富を得て、シャブリの村は発展した。聖ピエール(Saint Pierre)教会、市立病院ができ、14世紀の初めには、29の塔と3つの門と2つの隠し扉を持つ城壁が建設された。1478年には、ピエール・ルルージュ(Pierre Lerouge)が、フランスで5番目の印刷所をシャブリに作った。50年後には、人口は4,000人になり、シャブリは絶頂を極めた。
 1568年、その2月はシャブリにとって暗黒の時であった。宗教戦争の狂気が、町を焼き尽くした。シャブリはユグノー(新教徒派)により、略奪され、焼かれ、荒らされた。再び繁栄が戻ってくるまでには、2世紀も待たなければならなかった。その時になると、シャブリはフランスの歴代の王のテーブルに誇らしげに置かれた。これは素晴らしい宣伝になり、シャブリは世界制覇に出発することになる。
 前世紀の後半に突然起こった、フィロキセラ災害に痛めつけられ、ブドウ畑は荒廃した。シャブリワインが、このような困難な時代を過ごしたことは、かってなかった。すべてやり直し、またゼロから出発しなければならなかった。その後の数十年間の歳月と、自分の土地に信頼をおく栽培者の執拗な働きのおかげで、ブドウは再び芽を出した。
 前世界大戦による町の爆撃が終わった後、1949年に最初のワイン祭りが開かれ、それがシャブリのルネッサンスになる。再び商業ルートに乗り、シャブリは世界中のテーブルの上に乗るようになった。それはブルゴーニュの偉大なワインの永遠性に、再びたどり着いたことである。なんと、16世紀の歴史のあとで……。